グルーブ・マシン20周年記念盤 の文章を訳してみた(前編)

1987年の12月21日ワンダー・スタッフポリドール・レコードとサインした。80グランド(8万ポンド?)といういかした契約金で、と僕のその年の日記に書いてある。
その同じ週、レコードミラーマガジンは87年のインディーズシングルのナンバーワンにUnbearableを選んでいた。当時は”インディーズ”はメジャーのレコード会社に所属せずにリリースされたレコードを意味した。自分達のレーベル、ファーアウト・レコーディングカンパニーからのセカンドリリースシングルにしちゃ悪くない結果だ。ポリドールが8万ポンドをよこしたのも当然。


インディーズという自由さを捨て、1988年の最初にやるべきことはデビューアルバムのレコーディングに取り掛かることだった。
その前の12ヶ月はギグの連続でアルバムのために全ての曲を書く時間がなかったのだけど、88年の1月までにはライブでやってきたことがいい形となっていて、1月3日にマイク・モランという若いプロデューサーとロンドンのイスリントンでレコーデイングを開始することができた。
そのスタジオはジャムのドラマー、リック・バッカー所有のもので、僕達はみなすごく興奮したんだけど、ドラムのマーティン・ギルクスがカップボードの扉を開けてジャムのギグで何度も見たことがあるリックの有名な白いドラムキットを見つけたときには、それは興奮したものだった。


本当のロックとして記憶に値するバンドを目の前にしているにもかかわらず、ポリドールとの初めての話し合いうまくいかなかった。プロデューサーのマイクは始終礼儀正しくいいヤツで、僕達はマイクとうまくやっていたし、実際にマイクとレコーディング作業を行っている間は、バンドのメンバーはみんなレコーディングはうまくいったと思っていた。しかし残念なことにミッドランドに戻りできあがったものを聴いてみたら、想像していたものとはまったく違っていた。だらしなく演奏しているみたいになっていて、音の質もくすんだようだった。多分、これはマイクが、僕らのやってきたどこか半狂乱のライブパフォーマンスから引っ張りあげようと試みた結果だと思う。
これで分かったことは、プロデューサーの椅子にふさわしい人物じゃなかったってことだった。


問題は、88年の初頭はいつもどおりにギグを続けていて忙しかったことだった。ウースターイメージズは23箇所のUKツアーの初日の会場だった。そのツアーのうち17のライブはゾディアック・マインドワープ&ザ・ラヴ・リアクションのタトゥードゥ・ラブ・メシアツアーのサポートだった。僕の日記がその日々について自分がどう感じていたか教えてくれる。

2/26 ロンドン・アストリア マイティー・レモン・ドロップスのサポート
   すばらしいギグ!後で売ろうと新しいTシャツを手に入れた
2/27 ライセスター大
   分かった、ゾディアックはフレンドリーじゃない
2/28 ポーツマス ギルドホール
   つまらん
2/29 カーディフ
   くだらん
3/10 グラスゴー バローランズ
   いいね NMEのジェームス・ブラウンに会った。彼とは3日間いっしょだった。
3/11 レッドカー ボウル
   ばからしい くだらない 後で売ろうと野球帽を手に入れた

お腹の調子が悪いのとスポーツのアパレル用品はおいておくとして、3月の3週目の火曜日はツアー休みの日で、代わりに有名なロック&ポップスのプロデューサー、パット・コリアーに会いにロンドンのオールドストリートにある彼のグリーンハウス・スタジオに出かけた。僕達のA&R担当、グラハム・カーペンターは素晴らしい働きをしてくれ、ポリドールでの8年間に渡り助けになってくれた。その彼が、パットと2・3曲やってみてはどうかと提案してくれた。グラハムとパットの二人はワーナーブラザーズのエレベーションレーベルでいっしょに仕事をしたことがあった。僕もそのときすでにパットがレコーディングしたレコードを何枚か持っていた、ウェザー・プロフェッツ、プライマル・スクリーム、ジーザス&メリーチェインくらいだけど。でもなによりぜひ僕達もやってもらおうと思ったのは、パットがあの伝説のパンクバンド、バイブレイターズでベースをやっていたと知ったときだった。


残念なことに僕の日記ではパットとレコーディングを開始したのがいつかははっきりとは書いていないのだけど、88年の3月20日あたりに違いない。31日の日記を見るとgive me moreのビデオをディレクターのマット・リプシーと撮ったと書いてあるから。「ヘトヘトになったけどうまくいった、と思う・・・」という表現で。


マットはほかにa wish awayとit's year money のビデオのディレクターもした。これら初期の頃に僕らのPVのディレクターをして以来、彼は映画やTV界で成功している。僕が驚いているのは、give me more、僕らのメジャー第一弾シングルだけど、これを4月18日にレコーディングしていた。今思えば信じられないんだけど、レコーディング、ミキシング、ジャケット、ビデオとメディア宣伝を、1ヶ月の内にやってしまったことだ。普通の期間を踏まえると、これは異常な速さだ。だけどこのことは、どれほど夢中で必死になっていたかということを、よく表していると思う。シングルはUKチャートで75位から次週には72位にあがった。


パット・コリアーとのレコーディングの日々はこういう感じだった。

午前9時:ランカスター・ゲートのコロンビア・ホテルで起床。シングルルームに4人で泊まって、トム・ブラウンの学校生活のように皆で並んで寝ていた。

午前10時:きまって朝食係とトラブってからコロンビア・ホテルを出る。あの頃としては朝の遅い時間でも飲めるのでその点ではよかったが、あのホテルにはひどい従業員もいた、今でもね。

午前11時:グレーンハウス・スタジオに到着。地下鉄でロンドンを回った。TUBEに乗った経験があったのは一人だけだった。ベースのロブ・ジョーンズだ。さぞおもしろい光景だったろうな、ロブが先頭で、マーティンとマルクと僕がその後をついていって。まるでヒヨコが母鳥の後を歩いてるみたいで。

正午:レコーディングはたいていこの時間に始まった、レコーディングの経験は当時まだ浅かったのに僕らはかなりの仕事嫌いでこんな時間に。スタジオのラウンジには2台のピンボール台とスケーレックストリックのスロットカーコースがあって、明らかに楽器より使われていたように見える(僕らをレコーディングに集中させようと、パットがあとでこれを全部撤去してしまったけど)。レコーディング作業はいたってスタンダードなものだった。メンバー全員で1つ曲の1つのバージョンを、グリーンハウスの最上階にある広いライブルームで演奏する。そしてギター、ベース、ボーカルのトラックがマーティンのドラムパートのガイドとして使用され、それでドラムを録る。マーティンはすごいドラマーで、録り直すことがめったになく、アルバムの全てのドラムは完璧なもので、差し替える必要がまったくなかった。それからロブがベースを録る。マーティンと同じようにロブも強力なベーシストで、ロブのベースプレイは、まるでドアとその鍵のように、マーテインのドラムとがっちり噛み合った。
ベースとドラムが録り終わったらマーティンとロブはもう自由の身で帰っていいのだけど、ほとんどそうしなかった。ロブはいつでも僕の手助けをしてくれて、ボーカルパフォーマンスを正してくれた。パットのアドバイスでもタイミングやチューニングがうまくいったけど、テープにしてみるとステージパフォーマンスでの特徴ある声の抑揚をうまく出せなかった。ロブは、覚えている人もいると思うけど、ステージで全て歌の歌詞を歌ってくれた、ロブ用のマイクがなくても。ロブのスタジオでの助けのおかげで、ベースプレイに加えて、ライブ感をかもし出すことができた。僕達はドラムとベースを先に一通りレコーディングし、ボーカルとギターをあとの日程で録音した。これはスタジオのセッティングの関係でそうしているのだけど、違う楽器が再録音が必要になるまで卓をベストな設定にしておくためや、マイクポジションのチューニングをし直さなくてもいいようにということなんだ。


この時期の僕達4人はほとんどがうまくいっていた。くだらないことでも後でどうにかなった。だけどグルーブマシーンのセッションに全くトラブルがなかったとは言えない。印象的な出来事といえば、ロブがanimal & meを弾くのを拒んで帰ってしまったことだ。原因はというと、マーティンがこの曲にはドラムを叩くより打ち込みでいきたいと決めてしまったからだ。手抜きというわけでは全くなく、単純にこの曲をアルバムの他の曲と違った感じにしたいとマーティンが思ったからで、僕も賛成していた。だから仕方なく僕がベースを弾くことになり、ロブは出来上がった12インチのレコードの、自分の分のその曲の上に線を引いて曲を消してしまった。


午後6:30:僕達は食事のため休憩をとった。パットは仕出屋を頼んで夕食をとらせてくれた。たいていはカレーかパスタだった。92年にモダン・イディオットを録るためグリーンハウスに戻ったとき僕はベジタリアンになっていて、仕出屋は僕達が食べるあらゆるメニューに茄子をいれこもうとした。今でもあれほどひどいものを見るのには絶えられないね。



後編へ
http://d.hatena.ne.jp/rubyhorse/20081206#p1